埼玉 浦和木崎(現さいたま市)で発見

 日本でサツマイモが広く栽培されるようになったのは、江戸中期から。甘藷(かんしょ)先生青木昆陽の話は有名ですが、彼が広めたのは「八房(はちふさ)」という在来種でした。その頃は、長きに渡って飢饉の際の食物、主食の代用物とみなされていましたが、今日のような軽食・おやつ・菓子の材料としての「美味しい野菜」としての位置づけを獲得するのは、明治以降の品種改良によるものであり、紅赤芋はその端緒となった品種です。

 明治31年、その八房から枝変わり(芽条突然変異)が見つかります。後に紅赤芋につながるこの発見は、埼玉 浦和木崎(現さいたま市)の主婦山田いち、当時35歳によるものでした。現在のサツマイモ栽培に占める紅赤芋のシェアは僅か数パーセントに過ぎませんが、日本農業史、食文化史において、多大な功績を残しています。



なぜ、紅赤芋はスゴイのか?

 現在、いろいろなサツマイモの品種を見ると、多くが、国・県などの試験場が力を入れて研究しつくり出した育成品種ばかり。しかし、そんな育成品種でさえ数十年も長く生き残る品種は、1〜2品種のみです。そのような中で、無名の民間人が偶然発見し、今だにファンを持ち続け、百年間も生き続けている在来品種の「紅赤芋」は、非常に貴重な品種なのです。


紅赤芋の起源

 紅赤芋の発見から普及までの歴史をご説明いたします。いちは、4男4女の家庭で、夫が畳職で外出がちなため、一人で50アールほどの畑仕事をこなしていました。畑で「八ツ房」種から突然変異した「とりわけ肌の鮮紅色なイモ」7株を発見。食したところ非常に美味で、ほくほくしておいしい。一年試作して増やし、蕨や東京駒込の市場に出荷したところ、従来のイモより味がすぐれていたため、たちまち評判となりました。

 いちが発見した翌年の明治32 年、いちから種イモ4俵を譲り受けた三喜蔵は、紅赤芋の普及を第一に考えて、各地の希望者に種イモ・イモ苗を安価で譲っていました。「紅赤」の名は、この時三喜蔵がつけたといわれています。彼の努力によって、紅赤は関東一円に広がり、昭和10年ころには3万ヘクタールに達しました。埼玉県では7割が紅赤になったそうです。



「農業共済新聞」1999/08/11

紅赤百年記念誌編集委員会編「サツマイモの女王 紅赤の100年」
川越いも友の会・川越サツマイモ商品振興会 1997年

青木雅子著「紅赤ものがたり」けやき書房

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用


会社概要サイトマップお問い合せ

Copyright(C)2009 株式会社アライ All rights reserved.